HOMECOMIC番外編

ターニング・ポイント(1/5)

その日は最悪の一日だった。
 逃げ出すように退社した私は、行きつけの店のカウンターでカクテルグラス片手に深々と溜息をついた。
 憂鬱だ。
 (あぁやだやだ…明日からどんな顔して出社すればいいのよ)
 今日の出来事を思い出し、私は絶望的な気分になった。
 「なんだい、浮かない顔してるね」
 同い年くらいの顔なじみのバーテンが声をかけてきた。手には私が今飲んでいるのと同じ、マティーニを持っている。
 「ロクな一日じゃなかったのよ」
 そう…ろくでもない日。

 「主人に近づかないで…ッ!!」
 会社に乗り込んできた彼女は、そう叫びながら私に掴みかかった。
 彼女が誰なのかはすぐにわかった。昔のものだという写真を一度見たきりだけど。
 彼の、妻。
 写真の彼女は若く、同性の私から見ても魅力的な女性に見えた。
 それがどうだろう、つやのない金髪を振り乱し、泣き叫んで私の罵る彼女姿は。
 化粧っ気のない、生活に疲れたその姿は「若い女に夫を取られた妻」として人々の同情を集めるのに充分だった。

 (バレてるなんて…一言も言ってなかったじゃないのよ)
 おまけに、自分の出張中に妻が会社に乗り込んでくるとは、彼も思いも寄らなかっただろう。

 激昂した彼女を取り押さえたのは隣の課の課長だった。この人と彼は家族ぐるみで付き合いがあると言っていたっけ…。
 この課長に宥められながら、ようやく彼女が部屋から出ていくと、皆は呪縛が解けたように各々の仕事に戻った。
 私も、内心の動揺を隠して仕事を再開した。
 あからさまな視線も、ヒソヒソ漏れ聞こえる声も気にしないふりをして…。


 煙草に火をつけ一息吸い込み、沈んだ心が少しでも浮上するよう務めた。が、効果はなかった。
 なんだか虚しい…。
 でもそれは今日に限ったことではない…そう、最近の私には毎日が退屈だった。
 どうしてこんなにつまらないんだろう。
 故郷を離れ、望みどおりの会社に就職したのに。やりたいことをやってるはずなのに、どうしてこんなに虚しいんだろう。
 「ま、もう一杯飲んでスッキリすることだね」
 バーテンは、そう言いながら手にしていたグラスを私の傍らに置いた。
 「?頼んでないわよ」
 「あちらの坊やから、きみにってさ」
 彼は面白そうな表情をして、カウンターの端の方を指差した。
 そこには、こんな酒場でお酒飲んでていいの?…と突っ込みたくなるような少年がいた。
 年はきっと16か17くらいだろう。
 私と視線があうと、にこりと笑って片手を振った。
 くすんだ金髪を無造作に束ね、緑の瞳に悪戯っぽい光を宿した、綺麗な少年だった。


 「隣いい?」
 少年はグラス片手ににこにこと愛想のいい笑顔で近づいてきた。
 すらりと背が高い。最近の男の子にしては少し華奢な気がするが、綺麗な顔にはマッチしていた。
 「これ、きみに奢ってもらうわけにはいかないわ。自分で払うから、早く家に帰りなさい」
 「美人を見たら一杯奢るのが男の義務って奴だよ、堅いこと言わずにまぁ飲んどきなって。ハイカンパ~イ」
 カツンとグラスを打ち合わせると、彼は中の液体を一気に煽った。どう見てもソフトドリンクではない。
 一瞬呆気に取られていると、中身を飲み干したくせに平然とした様子で話し掛けてくるのだった。
 「おねーさん、なんだか沈んだ顔してるよね。いやなことは忘れてオレとパーっと遊ばない?」
 「きみねぇ…コドモは家でお勉強でもしてなさい。こんなとこでお酒飲んで大人をからかってるんじゃありません」
 「なんだよ、子供扱いしなくたってさ。もう16だぜ、一人前さ」
 「子供よ」
 「ちぇっ」
 ―RRRRRR
 吸い終わった煙草を灰皿に押し付けたちょうどその時、携帯電話が鳴った。バッグから取り出してみると表示されている番号は彼のものだ。
 「もしもし?」
 『やぁ…話は聞いたよ。きみ、今どこにいるんだい?自宅ではないね』
 「一杯飲んでるの。それより…驚いたわよ、バレてたの?」
 『ああ…私も驚いたよ。きみにはつらい思いをさせたね』
 「…大丈夫よ」
 私は彼の言葉に涙ぐみそうになった。今日は一日、一人の味方もなしに戦場に立っているようなものだったから…。
 思いがけず、自分が深く傷ついていたことに気付いた。
 『明日は会社は休みなさい。会社から連絡が行くから、待機してるんだ』
 「…なんの話?」
 『…言いにくいことだが…おそらくきみは解雇されることになる』
 「な…ッ!なんなのよ、それ!どうして私が…!!」
 『とにかく、いいね?自宅にいなさい』
 そこまで言うと一方的に電話は切られてしまった。
 「どうしたの?おねーさん」
 怪訝に問いかける少年の声も、まるで壁の向こうから聞こえてくるように遠い。
 ぐるぐると世界が回っているように感じるのに、私は現実をはっきりと認識していた。
 あの人は、私を捨てたのだ。
 「ねーってば、どうしちゃったのさ」
 「……最ッ低」
 「なに?なんかあったの?」
 呑気な少年の声に、私はようやくいま自分がどこにいるかを思い出した。
 「ねぇきみ」
 「なに?おねーさん」
 「私を楽しませてくれるわよね?」
 「そうこなくっちゃ」
 少年はにやりと微笑んだ。もうこうなりゃどうなったっていいわ。
 私はすっかりやけっぱちだった。